過去俺

11/13 友人2人を自宅に招いて鹿肉を食べる。お客さんの来訪で家族もテンションが上がり、ドンドン食べて飲んで話しての騒ぎになった。盛り上がるったらない。こんなに熱くて力があってぶつかり合うなんて、そうは無かったことだ。特に父や母との会話を聞いているのが新鮮で、これは面白いものだ。話を聞いて、それに返して、また広がっていくというのは本当に素晴らしいことと感じた。どこにでも種は転がっていて見逃しがちだけど、貴重で大切なものだ。

 私は誘った割にはあまり食べられなかった。鹿肉は一口も入らなかった。同じ皿に乗っているものを分け合って食べられなかったのは残念だが、彼らと食事をする機会が増えれば問題はなくなるだろう。とにかく話が出来たのが何よりのごちそうだ。本当に人と話す事が少なくなったと実感した。あんなに嬉しいものは、もっと広げていく努力をしなければならないな。自分だけにとじこもる事が多くなっているので、何とかして話をしてつながる事が出来ればいい。

 良い時間を作っていけたのは幸いという他ない。

 

 しかし自分一人でいる時間が長くなっていくというのは、俺の特性なのだろうか。どうも皆と積極的に関わっていくというよりかは、だんだんと一人になるように自分をしむけているような気もする。色んな人と関わりたいと思っている割には、行動自体は内向的というんじゃないか?そして内向的という割には、どこか抜けた部分のある自我というか、ある点では非常に頑固な世界があるけれどもそれ以外の大部分は他の人に大きく左右されるような。自己の内面が他人が映る鏡っぽいというか、見えるはずの実体が形を為していないような気がする。作る上で大切な頑固さというか、そういった思い込みみたいなものが実に弱々しい。ふらふらともやが突っ立っているだけのような感じか。そしてそのもやが、多分俺にとって相当重要なものの気がする。全然形になる気配が見えないけど。そこが強化されれば、大分違ってくるんじゃないだろうか。

 

 

11/14 zoo団フィギュアの手入れ。角や身体のパーツを盛っていった。ある程度の細かい造形なども入れたが、のちのち削り落としたりしたらまた入れなければならない。だが目安として機能してくれるはずなので、やっておいて良かった。ダイソー粘土の上にファンドの石粉粘土を盛っていったのだが、食いつきが悪かった。かなり水分を足した粘土でないと、剥離してしまう。接着剤の違いだろうか。ネジ式の様に溝を作ったり、ヤスったりして表面積を大きくしないといけないかもしれないが、それでも相性が悪そうな気がする。他の石粉粘土と比べてはいないのでダイソー粘土を軸に使うなら、地道にやるしかない。

 空気が乾燥してきたせいか、以前に手を入れたときとは粘土の乾きっぷりが違う。どんどん乾いてくるので大変作業がしやすくて助かる。

 動画のキャプチャーをする為のフリーソフトを手に入れた。これでネギマンの時にどう使われたのかを作品集に入れられる。就職課の人のアドバイスに感謝。

 

 自分の気持ちをしっかりと伝えるにはどのような工夫をすればいいか、はよく聞く話だと思う。実際に何か行動する時、それを人に説明をすることは日常茶飯事なわけだ。説明して分かってもらえた場合、応援者として支えになってくれる事で大変に力がみなぎる、気がする。だから分かりやすく説明する必要が出てくると思う。しかし自分の感想を持つというか、伝えたくなるほどの心の動きって実はとても伝えづらいと感じているんだけども、その辺り他の人はどうなのだろうか。伝えるにはなるべく普遍的で、イメージしやすい言葉が必要になってくる。そして、何より話すには論理的な形として口から出て行くのが良いと思うんだけど、感動している時は独特の思考の展開をしているから、ちゃんと説明出来ない。自分の中の渦巻く色や高鳴る鼓動とかを、相手は感じられないわけで。

 いや、感情は伝わらなくていいのか?自分の慌てふためく様を相手が観察して勝手に感じてくれれば良いのかな。まぁとにかく自分の考えている事を人に説明できるように、ある程度学んできたわけだけど、その過程でどうも分かりやすく伝えるには俺の感覚が邪魔だと判断するようになっていったみたいだ。特に強く心が動く事が、とても少なくなった。自分を伝える事が怖いんだな。俺の生の部分、ちょっとだけ隠れている部分が垣間見える事を心底拒否しているようだ。ギチギチとして動けなくて実につまらない。そうなったのは、やっぱり心底信用していないからじゃないかな。「楽に生きる」という考えの、褒められない部分に悩んでいる感じ。

 いちいちリアクションを取る事で身体から反応するようにする訓練もあるみたいなので、ちょっと参考にしてみる。

 しかし書きながら考えていると、自分の本質とか本音とかこだわる必要も無くなってきたような気がする。どうあがいても今の自分以上に、自分を表しているものはないんだもんな。その奥底にあるかもしれない薄汚いと思われる部分は、まぁ印象最悪な悪友とでも思っていればいいのかもしれない。何もかんも真っ白、風呂敷全開みたいな感じでいるほうが大変かもしれないし。奥底にいる最低最悪なヤツと、延々殴り合いしながら侮蔑の言葉を吐いて吐かれて、死ぬまでつきあっていくのがいいのかも。そう考えると悪くはないな。俺と俺だけの問題だから、誰にも迷惑かけないし。でもあいつ取り巻きが多くていつも多勢に無勢になるんだよな。自分の相手をするだけでへろへろだ。

 ただ、説明するときにきちんと順序立てて話すのが苦手なのはどうにかしたい。結論を先に言うのがこんなに難しいとは。発想に至った理由から自分の感情の説明まで、一から百まで全部言えないのは当然としても、簡潔にいう事が出来ないのが何とも口惜しい。根拠とかもう、言った瞬間忘れてるもの。もうちょいマシな方向に行かないものかね。

 

 

11/15 ポートフォリオの手入れ。スクリーンショットを貼付けるのと、文章の入れ替えや書き直しをした。やっぱりページを作るのは中々難しい。作品を、どういった理由で、どんな手法を使って、どんな経過をたどって、どのように完成させたか。それらをまた細かくバラしていって、大筋を大体つかめるように説明するのがいつだって未完成に思えてしょうがない。これなら伝わるかな?と思ってまとめていっても、実際に見せていくと「ここが知りたいけど書かれていない」みたいなことがたくさんあって、それをまた直す。それ自体は苦じゃないし、だんだんと見やすくなっていくのなら、こっちもやりがいが出てきて面白いから良いんだけど、問題は見てもらった際にもらう一言を聞き逃してしまう事だ。気をつけないと、と思っていてもまた聞き逃してるから、どうにか心を締めなおさないといかんね。

 母が辻堂のモールに行くということでついていった。感想は「かゆいところに手が届かない」。ユザワヤを画材屋かわりに期待していたのだが、品揃えが足りなかった。特に粘土があることに期待していたんだけど、石粉粘土の欲しいタイプのものはなく、近場で手に入れるという考えは消滅してしまった。あと割引が効いていなかったので、これなら世界堂に行って買った方が特という事になった。町田はなんだかんだで最寄りで一番そろっている場所というのを、再認識。

 服や雑貨が多く占めていたが、どれもこう欲しいものが無く、お手軽感覚に買い物をしていく品揃えの印象を受けた。しっかりした生地の服が欲しいとか、ちゃんとした心配りのあるアイテムが欲しい、と言った場合には心もとないと思う。反面、ちょっと急ぎで安くてそれなりに名の通って見た目も悪くないのが欲しい、という場合にはお役に立つモールなんだろう。ユザワヤの品揃えもまさしくそんな、浅くそれなりに広くといった感じだった。

 服に関して思ったんだが、どうしてああも薄く薄くなっていくのだろうか。重ね着してもなお寒く、重ね着と行っている割には筋肉のついた身体を強調する作りになっているものばかりだったように思う。厚手で無地のシャツとか欲しいんだけど、どこも置いていなかった。古着屋で見つけたくらいだ。俺は暖かくなりたいんだ。ん?ひょっとして薄手なのは身体を引っ付け合うようにしむけているのか?だとしたら引っ付け合う人がいないケースも考えて頂けるとありがたい。

 あー、専門店がメチャメチャにコアな品揃えをしているモールとか無いかなぁ。もしくは商店街。近場に欲しい。